長谷川等伯の魅力を再発見 (BSプレミアム 英雄たちの選択「美の下剋上 絵師 長谷川等伯」を見て)

14年ぶりの日本国宝展が10月14日から始まりました。
桃山時代の絵師、長谷川等伯の作品も出品されます。
等伯の国宝といえば、なんといっても「松林図屏風」ですが、
今回の国宝展で出品されるのは、京都・智積院所蔵の「松に秋草図」1点のみです。
展示期間は、前期の10月15日~11月9日です。
個人的には、より絢爛な「楓図」のほうが見たかったのですが、
秋草図だけでも東京に来てくれてありがたいですし、
見る価値・満足感はあると思います。

それに合わせて?BSプレミアムで10月16日に放送された英雄たちの選択「美の下剋上 絵師 長谷川等伯」
が大変面白かったので、その感想とちょっとしたまとめを記します。

京都・智積院所蔵されている「楓図」を材料に番組が進むわけですが、
この絵を等伯が描いたこと自体、異例であるという話から始まります。
等伯は町の工務店で狩野派はゼネコン会社というわけで、
やはり狩野永徳とのライバル関係の話ははずせません。

絵仏師として出発

等伯の出身は、現在の石川県七尾市です。
当時そこを支配していたのは畠山氏で、その家臣の息子として生まれました。
武士の子として生まれたわけですが、なぜか染物屋を営む長谷川家の養子になります。
長谷川家は絵仏師としても地元では知られた存在でした。

その影響によって長谷川家で熱心に絵を学んだことが考えられ、
等伯が描いた初期の仏画は完成度がとても高いことからも、、
かなり卓越した技術を身に着けました。

武士の出身なのに町人の養子に出されたという屈辱的な経験でしょうか、
単なる町絵師で終わらず日本一の絵師になりたいという
夢が強かったと思われます。
30歳過ぎてから本格的に京都へ向かいました。
当時は狩野永徳を頂点に狩野派が画壇を支配していました。
全国の武士や朝廷からの注文をほぼすべて請け負っていました。

等伯と日蓮宗

一方の等伯は縁もゆかりもありません。
そこで等伯は、自分が信仰していた日蓮宗のネットワークを頼ります。
日蓮宗というのは死後の救済よりも、現世の幸せを重要視した教えです。
当時の京都では日蓮宗の寺院がたくさん作られました。
等伯は本山である「本法寺」に身を寄せます。

本法寺ではその頃の等伯の作品が「日堯上人像」など
いくつか残されています。
そこでさまざまな絵を学んで腕を磨いたといわれていますが、
およそ17年間、具体的に何をしていたかはよくわかっていません。

等伯と堺の豪商

唯一の手がかりなのは等伯自身が語った「等伯画説」で、
そこには堺の人々と交流をもっていたことがわかります。
堺と等伯を結びつけたのは当時の住職・日通上人でした。
日通上人は、堺の豪商の出身でした。

等伯ひとりで堺の豪商と会えることはまず不可能なので、
そこで日通上人の縁という形で、いろいろ関係を持つことができたのでしょう。
もしかしたら、豪商が所有している絵などを
見せてもらったりしていた可能性が考えられます。

当時の堺は、鉄砲の製造や輸出業などで経済が発展し、
多くの豪商が生まれました。
その経済力を背景に茶の湯の文化などを築き上げていきました。

堺の豪商たちや日蓮宗の人脈を使って、
のし上がっていったと考えられます。

初めての大事業と千利休

そして51歳の時に、増築する大徳寺の天井や柱に絵をえがく大仕事を請け負います。
重文「大徳寺山門天井画」は力強い筆遣いで極楽浄土を舞う鳥などが見事に描かれ、
いまもそれが残されています。
大徳寺は当時世間に大きな影響力を持っていたので、
一躍京都で評判になりました。

私財を投じて、この増築すすめたのが千利休です。
堺出身の千利休は、狩野派はあまり好きではなかったといわれ、
新たな茶の湯など新しい文化を作り上げる中、
等伯の出会いはうってつけの人物だったと言われます。

狩野派と等伯

そうして華々しいデビューを飾った等伯に、
やがて御所の造営に伴って描かれる障壁画の依頼が舞い込みます。
しかし狩野派は自分立の権益を守ろうと、その妨害工作に出るのです。
当時、とある公家が残した日記「晴豊公記」によると
「はせ川と申者 めいわくのよし ことはり申来候也」とあります。
そしてその阻止に成功します。
等伯の落胆は想像に難くありません。

ところが事態が急転します。
狩野永徳が47歳の若さで急死します。
このカリスマが亡くなったことで狩野派は混乱に陥ります。
そして等伯は豊臣秀吉から大きな仕事の依頼を受けます。
壮大な菩提寺・祥雲寺の障壁画です。
それが今の智積院の「楓図」です。

狩野派以外の人物が大事業の絵の制作を任されるというのは
極めて異例でした。

等伯とスティーブ・ジョブズ

番組に出ていた投資家の瀧本哲史氏は、
等伯をベンチャー企業みたいだと語ります。
狩野派が大企業で等伯がベンチャー企業。

等伯は養子に出されたのですが、
アップルコンピューターの創業者であるスティーブ・ジョブズも
子どもの頃に養子に出されました。
出された先は工場に働いている人。
ベンチャーを起こす人は小さいころ苦労したり、
嫌なことがあったりして、それをバネにして、
大成したいというところは等伯と似ているというわけです。

茶室は商談

堺の経済がとても発展してきて、豪商が出てきます。
小説「等伯」を書いた作家の阿部龍太郎氏は、
堺であれだけ茶の湯が盛んになったのは
茶室は商談の場だったからと語ります。
今でいう高級会員クラブのようなもの。
茶室に絵を飾るという需要があるので
等伯の活躍の出番があるというわけです。

堺という新しい勢力が出てきたことによって、
新しい芸術や文化が生まれました。
その時に現れた等伯はうまく時代にマッチしていた
ということが言えるのです。
時代のタイミングにいい具合に現れた人物だったのです。

等伯と秀吉

秀吉が等伯に絵を依頼したのは、
信長時代とは違う=狩野派とは違う絵を
求めていたのではないかと番組で語られます。

楓図など襖絵などの大事業を手掛けている最中、
千利休が秀吉から切腹を命ぜられます。
当然、等伯にもその話は伝わってはずです。

自分も秀吉に満足させられなければ
命がないのではないかという物凄いプレッシャーが
あったではないかと思われます。

楓図の完成

文禄2年(1593年)に秀吉から受けた障壁画を完成させます。
楓の巨木に色とりどりな草花を配した絢爛な構図で、
狩野派の影響をうけつつも彼らにはない色彩豊かな世界を
描きました。
この楓図と対になる桜図は等伯の息子・久蔵が描いたもので、
等伯に負けず劣らずの作品です。
こうして長谷川一派は、大プロジェクトを見事やり遂げました。

秀吉と久蔵の死

しかし、突然不幸が襲います。
才能あふれ、一門と託す予定だった息子の久蔵が亡くなるのです。
そして秀吉もその5年後亡くなります。
重要な後継者とパトロンを失った等伯は、今後の選択を迫られます。

・競合策
   狩野派と競合として御用絵師の座を奪い、家康に気に入られるようにする

・乗っ取り策
   狩野派に入り、狩野派自体を乗っ取ってしまう策(永徳の息子・狩野光信
   とは親しかったと言われ、作品にも等伯の影響が見受けられる)
   ただ逆に飲み込まれる危険性あり。

・新規開拓策
   城や寺院の注文に頼らず、町衆達から仕事を得る策。
   商人の台頭は目覚ましいので
   彼らの喜ぶような絵を量産すれば生き残れる。
   ただ伝統や格式がないので、なんらかの権威が必要。
   

ブランディング戦略

等伯は新規開拓策をとりました。

(詳細は後日)

忘れ去られる等伯

出光美術館所蔵の「竹虎図屏風」は、
狩野探幽が室町時代の画家周文の作品だと鑑定しました。
左側にその文字が見えます。
しかしこれはのちになって等伯の作品だとわかりました。
狩野派は長谷川派を歴史から抹殺しようとしました。

同じく出光美術館所蔵「松に鴉・柳に白鷺図屏風」には
柳の根元に意図的に消された痕跡があります。
赤外線写真で見ると等伯の印があったことがわかりました。

こうして等伯の名は歴史の表舞台から消されてしまうのでした。

再評価

長谷川等伯が再評価されるのは昭和になってからです。
「楓図」さえもそれまでは狩野永徳の作品とされていました。
その後、画風や構図の研究が進んで等伯の作品と認められました。
そして再び等伯の作品に光が当たったのです。
そこでわかってきたのは、多彩で技術・技量の高さ、
後世に与えた影響の大きさでした。
江戸時代は完全にまた狩野派が御用絵師を席巻したわけですが、
逆に狩野派が等伯の影響を受けている(盗んでいる?)のです。

東京国立博物館学芸員の松嶋氏は
尾形光琳の名品「紅白梅図屏風」も等伯の描き方だと語ります。
両側の木は真横から見ています。
真ん中の水面は上から見ています。
背景は地面なのか空なのかわかりません。
そんな構図から情緒や物語を読み取るという点は等伯だと語ります。

等伯とバッハ

瀧本哲史氏はバッハを例に出します。
等伯の再評価にいたる過程の共通点を語っていました。

ヨハン・セバスチャン・バッハは彼が生きている時代に
時代遅れ・古臭いと批判されました。
やがて歴史からは忘れ去られました。

しかし、後世の音楽家はバッハを大変評価し、
クラシックだけでなく、ジャズやPOPSにも影響を受けています。

時代遅れ・古臭いという点は等伯とは違いますけども。

等伯の魅力

国宝・松林図屏風は、松を描くというより、気体というか靄や霧、水分や雰囲気を
を描いています。描かれていない部分の存在感が際立つわけです。
色とは?音とは?感覚とは?そんなものを追求していった絵師です。
狩野派のような大きな権力や組織いたらそこまで思慮深い絵師にはならなかっただろう、
それが幸いしているのかもしれません。
作家の阿部龍太郎氏は等伯はやさしい男だったのではと語ります。
猿の絵や子供の絵を見ると、家族思いだった等伯が想像されるのです。

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